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朝ドラ【エール】のヒロイン古関金子(こせき きんこ)さんの生涯に迫ります。出身地・両親兄弟・結婚と子供3人など見ていくと、古関裕而さんに手紙で猛アタックした馴れ初めがやっぱりスゴイのでした。
生涯5000曲以上を作曲した古関裕而さんを支えた嫁が金子夫人です。昭和初期からいくつも困難を乗り越えたおしどり夫婦。
結婚前の旧姓は内山金子さん。出身地はどこで、どんな両親兄弟のもとで育った子供だったのでしょう?
結婚して古関金子さんとなってからの生涯は、旦那の成功の影の立役者として、子供3人を育てる母親として、オペラ歌手として、文学女性としてなど様々な顔をもちました。
2020春から放送される朝ドラ【エール】のヒロインは二階堂ふみさんですね。戦前・戦中・戦後の音楽業界でポピュラー音楽の第一線で活躍した大作曲家の生涯をたどるドラマだから絶対面白そう。その時代その時代の有名人もたくさん出ますし。そして脚本は『ハゲタカ』『コード・ブルー』など職業系ドラマで才能を発揮する林宏司さんだから期待値あがります。
目次
●古関金子(内山金子)出身・両親・兄弟
古関金子さんは、旧姓・内山金子といいます。
明治45年(1912年)3月6日 、愛知県豊橋市に生まれ、両親は父親が内山安蔵さん・母親が内山みつさん。子供は7人で長兄と6人姉妹がいて内山金子さんは3女でした。
父親の職業は豊橋市にある陸軍第15師団に物資を納入する業者で、これを家業としました。しかし内山金子さんが12才のとき父親が早死し、母親が家業を継いで子供たちを育てました。
内山金子さんは活発な子供でいわゆるおてんば娘。音楽と文学が好きでいつも空想の世界に浸っていました。音楽好きが高じてオペラ歌手を目指すことになりますが、姉妹のなかで音楽の道に進んだのは内山金子さん1人だけでした。
高校は豊橋高等女学校(現在の豊橋東高校)に進学。卒業する頃には宝塚や音楽学校への進学を夢見ますが、1928年(昭和3年)卒業後、女流作家の長谷川時雨さん主宰の女性文芸雑誌「女人芸術」に参加し、中部地方委員になりました。
その頃、兄・勝英が満州で事業を起こしていたので内山金子さんは遊びに行ったのですが、帰国途中に客船が座礁・沈没する事故にあい、危うく死ぬところでした。
■古関金子(内山金子)の両親・兄弟
● 父親:内山安蔵
● 母親:内山みつ
● 兄(長男)勝英
● 姉(長女)
● 姉(次女)
● (三女)内山金子(結婚後は古関金子)
● 妹(四女)
● 妹(五女)
● 妹(六女)
●古関金子 旦那・裕而との結婚の馴れ初め
内山金子さんは17才のとき家の家計を助けるため、知人の紹介してもらった名古屋の雑誌発行人宅に住み込みで、雑誌の編集の手伝いの仕事を始めると同時に、声楽の先生から歌を教わり始めました。
そんななか昭和5年(1930年)1月23日の福島民友新聞の『福島の無名の青年が国際作曲コンクールで入賞』という記事から運命が訪れます。
古関裕而という無名の青年が作曲した舞踊組曲『竹取物語』が、イギリス・ロンドンのチェスター楽譜出版社の作曲コンクールで2位に入選したという記事でした。入選自体が日本人初で、しかも2位は快挙。
素晴らしい人がいると感激した内山金子さんは、古関裕而さんに「楽譜を送ってほしい」と手紙を出したのがきっかけで文通が始まると、お互いに好きになり手紙で愛をはぐくむ遠距離恋愛が4カ月間続きました。
古関祐而さんは文通中にオーケストラ13曲・歌謡曲10曲・室内楽3曲を作曲して内山金子さんに捧げました。手紙の最後の結びはいつも『私の恋しきクララ・シューマン内山金子様//作曲家ロバート・シユウマン古関勇治より』と、ドイツの作曲家シューマンと嫁クララに自分たちを重ねていたのでした。
内山金子さんが作詞、古関祐而さんが曲を付けた曲は「君はるか」。
新聞記事から5か月後の昭和5年6月1日、豊橋まで会いに来た古関裕而さんについて福島まで行き、2人はそのまま結婚。内山金子さんは18才、古関裕而さん20才でした。
●古関金子 オペラ歌手だった?
結婚した年の秋、旦那の古関裕而さんに『日本コロンビア』から声がかかり夫婦で東京に上京。
最初は古関金子さんの長姉の阿佐ヶ谷の家に居候しましたが、『日本コロンビア』と専属作曲家の契約を済ませると、翌年昭和6年に世田谷代田に家を構えました。
自宅の近所に『帝国音楽学校』があったので、オペラ歌手を目指していた古関金子さんはここでベルトラメリ能子(よしこ)さんに師事して本格的に声楽を学びます。
同じ生徒には、のちにバリトン歌手デビューする伊藤久男さん、女優の蘆原邦子さんがいました。
古関金子さんはベルトラメリ能子さんの一番弟子で『カヴァレリア・ルスティカーナ』『トスカ』などオペラのステージに立ち、伊藤久男さんや作曲家の中山晋平さんはその才能を絶賛していました。
特に古関裕而さん作曲オペラ『朱金昭(チュウチンチョウ)』のときは、NHKのスタジオで第一声を放った瞬間にオーケストラ団員から歓声があがり、団員が「君は奥さんのためによいオペラを作曲すべきだ」と古関裕而さんに言ったというエピソードがあるほど。
しかし昭和21年(1946年)長男・正裕さんを出産後は、子育てに専念するため音楽の道は辞めています。でも音楽好きだから家では毎日歌っていました。
結局プロのオペラ歌手にはならなかったです。家庭を選びました。
●古関金子 旦那・裕而との子供は3人
古関金子さんと旦那・裕而との子供は3人、娘が2人と息子が1人です。
昭和7年(1932年)20才の頃1月に娘(長女)雅子さんを出産。
昭和9年(1934年)22才の頃7月に娘(次女)紀子(みちこ)さんを出産。
戦後昭和21年(1946年)34才の頃に息子(長男)正裕さんを出産。
息子の正裕さんは、古関金子さんがよく歌っていたのは覚えているそう。
母親としては過保護だったので正裕さんは反発しがちでしたが、そのうち上手に対処することを覚え、意見や小言は適当に聞き流すようになり、古関金子さんは息子のことを素直な良い子だと思うようになったとか。
息子の正裕さんが嫁と結婚すると二世帯住宅に同居し、孫の子育てを巡り嫁姑バトルもありましたが、別々に暮らすようになると嫁姑は上手く行くようになったとか。
■子供の現在は?
娘(長女)雅子さんはご存命なら現在87才。
娘(次女)紀子(みちこ)さんはご存命なら現在85才。
息子(長男)正裕さんは現在72~73才で、若い頃のバンド活動を活かしてプロ歌手との音楽ユニット『喜多三』を組み、新聞社を定年退職後にそのすばらしさを再認識した父の楽曲演奏とそれにまつわるエピソードトークのライブ活動を行っています。
●古関金子 晩年から死去まで
古関金子さんは息子が中学生になった頃、昭和33年(1958年)45才頃から女性文芸同人誌『婦人文芸』に参加し、詩や随筆を寄稿しました。
昭和36年(1961年)48才頃には、旦那・古関裕而さんと夫婦でヨーロッパ・中近東へ海外旅行を楽しみました。
昭和40年(1965年)52才頃には、詩の同人誌『あいなめ』に参加してそれまでの作品を刊行。
昭和55年(1980年)7月23日に病気で死去。享年68才。死因は乳がんの全身転移でした。
5000曲以上という旦那・古関裕而さんの精力的な作曲活動を支え、子供3人育て、自らも音楽と文学で才能を発揮した生涯でした。
長男・正裕さんは両親のことをこう振り返っています。
「おとなしい父と、激しい性格の母。私から見てもお似合いのカップルだったと思う。最後まで仲が良い夫婦だった」
●最後に 古関金子は朝ドラ【エール】モデル
古関金子さんは朝ドラ【エール】のヒロインの実在モデルです。
古関裕而さんの出身地・福島市と、金子さんの出身地・豊橋市は、2020東京五輪にあわせた朝ドラ実現を目指して署名を集めたりNHKに要望するなどして、実現しました。
内山金子さんが手紙で猛アタックして文通が始まらなければ結婚はなかったですし、古関裕而さんが作曲活動に専念できる生涯を送ることもどうなったかわかりません。 内山金子さん=古関金子さんの行動力すごかったです。
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