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元フィギュアスケート・アイスダンス日本代表で長野五輪にも出場した、河合彩さん(41才)が、ブログ「等身大のダイアリー」でスケートを始めてから引退、引退後のキャリアについて綴っていますが、波乱万丈の人生です。
フィギュアスケート・アイスダンス長野五輪の動画とともに、河合彩さんが引退した理由、アナウンサーになった理由、コーチをあきらめた理由などにも触れていきます。
目次
■フィギュアスケート・アイスダンス河合彩
河合彩さんは、東京都杉並区出身1975年4月4日生まれの41才です。
日本代表に選ばれた元フィギュアスケートアイスダンス選手で、現在はタレント・フリーアナウンサー・フィギュアスケート競技解説者として活躍しています。
■河合彩 ブログ「等身大のダイアリー」現役時代
フィギュアスケートを始めたのは7才でしたが、ジャンプが飛べなかったので、13才のときに、飛ばなくていいアイスダンスに転向しています。
最初は真剣でなかったものの、松村コーチと出会い16才からはアイスダンス一色に。
■五輪出場するも、涙の現役引退
青山大学在学中に、田中衆史選手とペアを組んで、1998年23才の頃、長野五輪でフィギュアスケート・アイスダンス日本代表に選ばれ、出場しました。
結果は23位でしたが、それまで10年間日本はアイスダンスで五輪出場はなかったので快挙でした。
そのすぐあと4月に早くも現役引退しています。
引退理由については、2011年のブログで明かしています。
お金がなかったからです。
当時は人気種目でなかったのでスポンサーが見つからなかったんです。
まだまだこれからなのに引退することが悲しくて河合彩さんは毎日泣いたそうです。
■河合彩 ブログ「等身大のダイアリー」引退後1
■日テレでアナウンサーに
河合彩さんは現役時代に接したアナウンサーという職業に憧れ、アナウンサー試験に挑戦し、見事合格しました。
日テレは、先輩後輩や礼儀に厳しい体育会系だったことが面白かったそうです。
ニュースからスポーツのリポーター、バラエティまで幅広く仕事を経て、スポーツ制作現場に異動となりました。
すると選手たちと接する機会が増え、「スケート界に戻りたい」という想いが。
河合彩さんは日テレは好きでしたが、スケートのコーチをすることを決意して、2002年12月に日テレを退社しました。
■河合彩 ブログ「等身大のダイアリー」引退後2
■コーチの仕事がなかった → ふつうに就職
河合彩さんはスケートのコーチになるべく、まずは語学を学ぶため2003年1月カナダ留学します。
留学が終わり帰国して、コーチの仕事を探したのですが、なんと、ありませんでした。
日本はスケートが少なくて、コーチが余っている状態で、食べていくのも厳しい状態。
河合彩さんは周りに相談して、コーチをあきらめて就職することに。
就職したのはスケートに全く関係ない、不動産IT企業でした。
そこで秘書を務めたあと、広告宣伝・ブランディングを4年間務めました。
2009年のあるとき、河合彩さんは自分のキャリアに一貫性がないと気付き愕然とします。
(スケート選手→日テレアナウンサー→留学→不動産IT企業で広告宣伝)
しかし、スポーツ選手の引退後に自分の経験を伝えたいと、前向きな考えに変わります。
■河合彩 ブログ「等身大のダイアリー」引退後3
■株式会社ディオを立ち上げる
そんな想いから、2010年3月にコンサルティング会社「株式会社ディオ」を設立します。
そして選手引退後のセカンドキャリア問題を解決するためのカリキュラム作りに励んだのですが、周囲から「河合さんが成功していないと、選手は話を聞かないよ」と言われます。
なので2011年から河合彩さんは、まず自分が成功することを目標にしました。
タレント事務所にも所属し、タレント・フリーアナウンサー・フィギュアスケート競技解説者として仕事をします。
■結婚と乳がん
2015年3月には結婚し、前年に乳がんの手術をしていて、ブログで綴っていますが、それは別の記事で追って紹介します。
>>河合彩の結婚披露宴で小塚崇彦は陽気なダンス!旦那は乳がんを支えた優しい寿司職人だった。
■フィギュアスケート・アイスダンスとは?
アイスダンスとは、フィギュアスケート種目のひとつで、男女ペア一組が音楽にあわせてダンスします。
アイスダンス=氷上の社交ダンスと呼ばれることもあります。
河合彩さんが1998年長野五輪に出場したときの動画です。
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