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朝ドラ『おちょやん』ヒロインのモデル、「浪花千栄子でございます」のオロナイン軟膏のCM看板で有名な、女優・浪花千栄子さん(画像)の若い頃から晩年まで生涯について紹介します。
実家が貧乏で女中(おちょやん)に出された子供時代を経て、10代後半で女優になり、戦前『松竹新喜劇』の前身である『松竹家庭劇』に参加して旦那と結婚。幸せだったはずが旦那がゲス。
上方女優の代名詞的で『大阪のお母さん』と呼ばれ親しまれた浪花千栄子さんには、学校にも行けない貧乏・才能あるのに給料未払い・ゲス旦那との結婚生活など色々な苦労があったのでした。
『大阪のお母さん』と呼ばれてますが子供はいたのかも気になります。
目次
●「浪花千栄子でございます」プロフィール(画像)オロナインで有名
名前:浪花 千栄子(なにわ ちえこ)
本名:南口 キクノ(なんこう きくの)
出身地:大阪府南河内郡東板持町(現・富田林市)
生年月日:(明治40年)1907年11月19日
年齢:66才で死去((昭和48年)1973年12月22日)
職業:女優
浪花千栄子さんが生まれた実家は、河内弁(かわちべん)とも呼ばれ大阪で特に毒舌で有名な河内(大阪府南河内郡)にあり、両親は養鶏場を経営していました。
養鶏場といっても実家は貧乏で、今なら考えられないですが小学校に通うことができなかったため字が読めない子供でした。
また、本名と芸名は違いますが、本名のおかげで40代のとき大塚製薬の『オロナイン軟膏』CMに出演し、街中の看板に登場した誰もが知る女優でした。それは本名の読み『なんこうきくの』に因んで『軟膏(なんこう)』のCMに起用されたから・・・ダジャレ?大阪っぽくて面白い。
「浪花千栄子でございます」のセリフから始まる『オロナイン軟膏』CMは人気でした。
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】子供時代(女中生活=おちょやん)
■道頓堀でおちょやん~京都で女給
浪花千栄子さんは8才のとき『道頓堀の仕出し弁当屋』に女中奉公に出されます。
茶屋や料亭などで働く女中は『おちょぼさん』と呼ばれ、大阪弁で訛ったのが朝ドラタイトルの『おちょやん』です。
字が読めなかった浪花千栄子さんは、弁当者にあった新聞紙の活字を暗記したりして、努力を重ねて独学で字の読み書きを覚えたのでした。
その後、京都で女給として働きました。
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】若い頃 舞台から女優に(画像)
来秋の朝ドラの主人公は、浪花千栄子なのか。これは見たい。若き日の浪花千栄子は、モダンガールだしなあ。名著『水のように』が、ちくま文庫に入ったら、嬉しいんだけど(ついでに『脇役本』が売れたら、なお嬉しい)。https://t.co/PDE96MKuMR pic.twitter.com/qgmmlKPguO
— 濱田研吾 (@hamabin1) October 31, 2019
■若い頃 舞台
1925年(大正14年)17才のとき浪花千栄子さんは、知人の紹介で『村田栄子一座』に入り、舞台女優になります。
ところが『村田栄子一座』は営業不振が続いたため、『東亜キネマ等持院撮影所』に移籍して、『香住千栄子』の芸名で端役キャストとして出演し続けました。
■若い頃 映画
1926年(大正15年)18才、脚本家・山上伊太郎さんが初めて脚本を書いたチャンバラ映画『帰って来た英雄』の準主役に大抜擢されたのがきっかけで、順調に仕事が回ってくるようになりました。
その後、時代劇スターの市川右太衛門さん、チャンバラ俳優の市川百々之助さんに招かれて映画出演が続きました。10代から当時の映画スターに才能を認められていたということですね。
しかし!給与未払い問題などあって映画界からか引退・・・。
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】若い頃 結婚・離婚・引退
1929年(昭和4年)21才で『新潮劇』に参加。
1930年(昭和5年)22才、喜劇俳優で劇作家の2代目渋谷天外、曾我廼家十吾たちが旗揚げした『松竹家庭劇』に参加します。
その年に1才年上2代目渋谷天外さんと結婚!同時に劇団の看板女優として活躍します。
※2代目渋谷天外さんは1906年6月7日生まれ
1948年(昭和23年)40才のときには旦那の2代目渋谷天外さんさんは『松竹新喜劇』も旗揚げ。浪花千栄子さんはここでも看板女優。『松竹新喜劇』は伝説の喜劇役者・藤山寛美さんなど輩出します。
■旦那の浮気が原因で離婚、引退
公私ともに幸せだった浪花千栄子さん。
ところが旦那が新人女優・九重京子さんと浮気のすえ妊娠させ子供が生まれました。
この浮気が原因で離婚!1951年(昭和26年)44才で『松竹新喜劇』を退団し、芸能界から引退。業界では行方不明扱いになります。
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】40代後半で大ブレイク
NHK大阪放送局の富久進次郎プロデューサーが、行方不明の浪花千栄子さんを大阪市浪花で探して見つけ、説得します。
説得され1951年(昭和26年)45才でNHKラジオドラマ『アチャコ青春手帖』に出演すると大ヒットし、全国的人気を博してブレイク。大阪弁の魅力が広まるキッカケにもなりました。
嵐山の天龍寺に名優浪花千栄子の竹生旅館はあった。ラジオで「お父さんはお人好し」が始まったころ、この旅館に父と泊まった。浪花千栄子は夜遅くなって帰宅したようだ。父と浪花の笑い声が部屋に漏れていた。帰路「苦労した役者やで」と父は言った。 pic.twitter.com/3MFWgma7zG
— 山口 康文 (@Yasufumi10) March 11, 2016
『アチャコ青春手帖』とは、花菱アチャコさんと母親役の浪花千栄子さんを主役に、親子の愛情を涙と笑いで描いた娯楽時代喜劇。続編『アチャコほろにが物語 波を枕に』『お父さんはお人好し』も作られた長寿番組で、映画化もされた、吉本興業の初期人気番組でした。
ブレイクの波に乗って映画女優の仕事は続き、溝口健二監督の『祇園囃子』で演じた茶屋の女将役で『ブルーリボン助演女優賞』に輝いてます。
この頃の代表作映画は
●森繁久弥と共演『夫婦善哉』(1955年)、
●黒澤明監督『蜘蛛巣城』(1957年)
●小津安二郎監督『彼岸花』(1958年)
●内田吐夢監督『宮本武蔵』(1961年)
など
世界のクロサワこと黒澤明監督にも高く評価された遅咲き女優でした。
「浪花千栄子でございます」のセリフで『オロナイン軟膏』のCMに出演したのは人気絶頂だったこの頃です。
浪花千栄子の本名が「ナンコウキクノ(南口キクノ)」ってのは、冗談みたいによくできた話だなと(;^ω^) pic.twitter.com/KN4ZkxGFhx
— 伊勢アカフク (@t_k1970) October 30, 2019
来秋の朝ドラは浪花千栄子がモデルか。リアルタイムで観た最後の世代かな。だから浪花千栄子と言えば、某軟膏のホーロー看板と『細うで繁盛記』の祖母役なのだが、『大奥』(1968)での藤岡という御年寄役は凄絶だった。この世にこんな非道な悪人がいるのかと当時8歳の自分には憎悪と恐怖の対象だった。 pic.twitter.com/2BhFGDUxHn
— 玄如@夜空のランプ (@gen_nyo_3560) October 30, 2019
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】晩年
浪花千栄子さんの晩年は、京都嵐山の天龍寺内に『料理旅館 竹生(ちくぶ)』をオープンさせ、養女と愛犬で経営し心を込めて料理をふるまっていました。旅館名『竹生(ちくぶ)』の由来は、貧乏だった子供時代から愛していた『竹』。
1973年(昭和48年)3月65才のとき、故郷・関西の阪神タイガース村山実線選手引退試合で花束贈呈してねぎらいの言葉をおくりました。
1973年12月22日に死去。死因は消化管出血・・・享年66歳でした。死去後、勲四等瑞宝章を受章しています。
『料理旅館 竹生(ちくぶ)』はもうありませんが、京都嵐山天龍寺・塔頭の松厳寺に墓地があります。
嵐山、小督塚
最初は、浪花千栄子さんが小督局( こごうのつぼね )の供養塔を建てられて、すぐ近くにはご自身が営まれる旅館 (竹生) があった。 「アチャコさんが、これなんでっか チクショーだっか〜て言わはりますねん」と、笑っておられた。
あーもう、「難波の夢は 夢のまた夢」 pic.twitter.com/IU5nBHTV31— 洋子 (@masayou1) October 7, 2018
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】結婚した旦那(画像)
浪花千栄子さんが結婚した旦那は2代目渋谷天外さん。
浪花千栄子さん上方を代表する女優なら、旦那は上方を代表する喜劇俳優、劇作家です。
永遠のライバルであり盟友の曾我廼家十吾さんと旗揚げした『松竹家庭劇』に入ってきた浪花千栄子さんと結婚してます。
しかし嫁の浪花千栄子さんが40代になると劇団に入ってきた新人女優・九重京子さんと浮気して、妊娠させて子供を産ませたゲスです。
●おちょやんモデル【浪花千栄子の生涯】子供
浪花千栄子さんは晩年、養女と一緒に『料理旅館 竹生(ちくぶ)』を営んでいることから、子供はいなかったと思われます。
●まとめ
朝ドラ『おちょやん』ヒロインのモデル、「浪花千栄子でございます」のオロナイン軟膏のCM看板で有名な、女優・浪花千栄子さんの生涯について紹介しました。
貧乏で字も読めないなか女中=おちょやんになり、10代後半で映画スターに才能を認められたと思ったら給料未払い。劇団に入って結婚したら、旦那が浮気相手を妊娠させて子供を産んだのが原因が離婚・・・かなり苦労した生涯です。
晩年やっと平穏な暮らしを手に入れた印象です。
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