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映画「海賊と呼ばれた男」が金曜ロードショーで地上波放送されるので、題材になった出光佐三さんについて迫ります。
海賊とよばれた男は実話でした。題材となった出光佐三さんは出光商会(現在の出光興産)の創業者。常識を覆す海上での油販売をして、海賊とよばれていました。
そんな出光佐三さんの結婚した嫁と子供ですが、2度の結婚歴があり、最初の嫁との離婚理由は切ないものでした。
実在した海賊と呼ばれた男=出光佐三さんの一番の功績といえば日章丸事件。映画でも重要な題材になっています。敗戦後の元気がない日本で、イギリスに喧嘩を売って勝利し、日本だけでなく世界の石油販売を変えました。
目次
●映画「海賊と呼ばれた男」実話モデル 出光佐三
出光佐三さんは1885年(明治18年)8月22日生まれ。福岡県宗像市赤間で、8人兄弟姉妹の次男として育ちました。
藍染めの原料・藍玉の卸問屋を営む父から「怠けずに一生懸命働け。質素を旨とし、人のために尽くせ」と教えられ、大学は現在の神戸大学へと進学しました。
■就職するがバカにされる
大学卒業後、出光佐三さんは友人たちと同じ大企業ではなく、周囲の反対を押し切り、従業員3名の小麦粉・石油・機械油を扱う小さな「酒井商店」に丁稚(でっち)として就職。
※丁稚(でっち)とは、職人に弟子入りすること。
海運会社や商社など大企業に就職した友人たちからは馬鹿にされましたが、石油時代を予見していたし出光佐三さんは「酒井商店」で営業・注文・配達・集金すべてを経験して商売のなんたるかを学びます。
2年で一人前として認められ、台湾で小麦の販売で大手三井物産としのぎを削り勝利。成果をあげ常務に出世しますが、帰国すると実家の商売が失敗して夜逃げしていました。
ショックを受けた出光佐三さんは家族を救うため「独立して稼ぎたい」「貨物船を持ちたい」と願いようになります。
■資産家・日田重太郎との関係
出光佐三さんは資産家の日田重太郎さんの息子の家庭教師を務めていた縁で、社会人になってからも交友関係が続いていました。
そして出光佐三さんが独立したい想いを相談すると、日田重太郎さんは別荘を売却して6000円(1億円相当)を、利子なし・事業報告もいらない、貸すのではなく、資本金として好きに使いなさいとくれました。
出光佐三さんは月収20円だったので年収20年分相当の大金です。涙が出ました。
ただし条件が3つ
1.家族で仲良く暮らすこと
2.自分の初志を貫くこと
3.このことは誰にも言わないこと
■起業
出光佐三さんは25才で、日田重太郎さんからもらった資本金で福岡県門司市に『出光商会』を起業。「家族で仲良く暮らすこと」という約束を守ってバラバラだった家族も呼び寄せました。
しかし油が売れない・・・3年で廃業の危機に陥ります。日田重太郎さん「潰れる」と謝罪したら、またタダでお金をくれたのでした。「ダメだったら一緒に乞食をしよう」と。
■海賊と呼ばれる
陸では会社が縄張りを持っていたので、『出光商会』は油を自由に売れず、海に活路を見つけました。
海上で漁船に、漁船向けの燃料油を安く販売したのです。これが「縄張りを荒らす海賊」と呼ばれました。陸の会社たちからクレームが出ましたが、軽油を売った功績が認められ不問に。
それでも国内で石油統制の強化を受け、満州や朝鮮半島で油を売ります。
しかしまた制約を受けたので今度は中国で売ります。中国は石油メジャーが独占していたが諦めず、1年かけて倉庫を入手。1935年春から上海支店をオープンして日本油の輸入販売を開始しました。
1942年、日本軍が東南アジアと西南太平洋に進軍。『出光商会』は石油配給業務を陸軍から委託され、この重大な任務を組織的行動で遂行しました。終戦までに27人が戦火に巻き込まれ亡くなりました。
■敗戦でピンチに
1945年(昭和20年)815日、日本敗戦。
出光佐三さんは還暦を迎えた60才。
『出光商会』は創業34年。国内営業所8店、海外営業所62店、1000名以上の従業員のうち700名が海外勤務でしたたが、会社は莫大な借金だけを抱え、何もかも失いました。
もはや再生不可能と全従業員が覚悟するなか、出光佐三さんは社員を集めて力強く訓示を述べ鼓舞します。
1「愚痴をやめよ」
2「世界無比の三千年の歴史を見直せ」
3「そして今から建設にかかれ」
会社再生、日本再建に取り掛かることを表明。マイナスからの再スタートでした。
■誰もクビにしない
多くの企業がリストラする中、出光佐三さんは誰もクビにしないと宣言。
戦前に集めた書画骨董を売却し、銀行から出来る限り借金をして、仕事がなくて自宅待機する社員にも給料を払い続けました。
■復活へ
出光佐三さんは売る油が一滴もない中、従業員を1人もクビにしないために、農業、漁業、元海軍大佐が持ち込んだ「ラジオの修理・販売」など様々な新規事業に取り組みました。
商工省からの、命の危険も伴う「旧海軍のタンク底の油を浚う事業」については、これをクリアしないかぎり日本への石油輸入は行わないというGHQに対する日本人の意地もあり、勇敢な従業員たちの活躍によって全ての油を浚うことに成功。
結果、『出光商会』はついに販売指定を取り付け、『出光興産』として本格的に石油業界へ復帰を果たしました。
■欧米石油メジャーという強敵
しかし日本の石油市場の独占をもくろむ欧米石油メジャーに妨害を受けます。
その窮地を乗り切るため、世界最大級の自社タンカー「日章丸」を建造。大量の重油と軽油の輸入に成功しました。
しかし欧米石油メジャーのさらなる妨害によって再び窮地に追い込まれ、その状況を打破するため、情勢不安定なイランからの石油購入を決断。しかしそれはイランの石油所有権を主張するイギリスを敵に回すの同然の行為「日章丸事件」へとつながります。
●映画「海賊と呼ばれた男」題材 日章丸事件
当時イランは第二次世界大戦後に独立していたものの、世界最大の石油資源はイギリスの資本の元にあり、イラン国家にも国民に利益がいきわたらない状態でした。
そんな中、1951年にイランは強制的に石油の国有化を宣言。
これに怒ったイギリスは石油を買付に来た他国の船を撃沈すると国際社会に表明(=経済制裁)
一方、日本は敗戦のためアメリカ、イギリスなどの連合国の占領下にあり、独自ルートで石油を輸入することができず、経済発展への足かせとなっていました。
■「日章丸事件」勃発
1953年3月23日
イラン国民と日本経済発展の足かせを憂慮した出光佐三さんは、イギリスの経済制裁は正当性はないと判断。
イランと長い交渉のすえ合意に取り付け、日本の外交・国際法・世界の世論に影響を与えないよう配慮したうえで、日章丸をイランに極秘裏に派遣しました。
4月10日
航路を偽装してイギリス海軍の目を盗み、ついにイランに到着すると世界中のマスコミに報道され、「日章丸事件」はワールドワイドな事件に。
武装を持たない一民間企業『出光興産』が、世界2位の海軍力を誇るイギリス海軍に喧嘩を売ったわけですから、日本でも新聞の一面トップを飾りました。
4月15日
イランで石油を満載してイランを出港した日章丸は、またしてもイギリス海軍の裏をかいて海上封鎖包囲を突破。5月9日に川崎港に無事到着したのでした。
■「日章丸事件」は裁判に
イギリスの石油会社アングロ・イラニアン社は、日章丸が積んだイランの石油の所有権を主張し、東京地裁に提訴し、日本政府にも圧力をかけてきました。
一方でイギリスの石油独占を快く思っていなかったアメリカが黙認し、出光佐三さんを支持する世論の後押しもあり、裁判は出光の勝利!
「日章丸事件」は、戦争に負けて何もかも失っていた日本が、国際社会に一矢報いた歴史的な事件としてたたえられました。
そして石油の自由貿易が世界的に始まるきかっけにもなり、出光佐三さんの名前が世界的に有名になった事件でした。
●映画「海賊と呼ばれた男」実話モデル 出光佐三の嫁と子供
出光佐三さんは2回結婚してます。
1人目の嫁は、城戸崎ケイさん(「海賊とよばれた男」の国岡ユキ)
福岡県筑前市出身で、資産家の令嬢であり夫婦仲も良好でしたが、子供が生まれなかったので、結婚生活11年目に話し合いのすえ1926年(大正11年)にやむを得ず離婚しました。
2人目の嫁は、山内靖子さん(「海賊とよばれた男」の国岡多津子)で、1927年(昭和2年)出光佐三さん42才の時に再婚しました。
土佐藩の藩主・山内家の一族という名家の出身。
靖子さんは子供を妊娠し、出光佐三さん43才の時に念願の長男・昭介さんを出産。のちの5代目社長となる人物です。
出光佐三さんと靖子さんの間には子供が5人生まれ、全員活躍しています。
● 長男:昭介・・・出光興産5代目社長
● 長女:孝子・・・画家になり、美術評論家の東野芳明と結婚
● 次女:哥代子・・・東京女子大卒。松本道雄と結婚
● 三女:純子・・・フィギュアスケート選手、アイスダンサー(全日本選手権優勝)
● 四女:真子・・・映像作家。海外で多数受賞
●映画「海賊と呼ばれた男」実在モデル出光佐三 死去
『出光興産』はその後、大企業へと発展。
フランスの文化勲章を受章した5年後、1981年(昭和56年)3月7日に出光佐三さんは享年95才で死去しました。
出光佐三さん死去後も『出光興産』は日本を代表する企業として、成長し続けています。
出光のガソリンスタンドは全国にあるから誰もが知る企業ですね。
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