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吉本興業を作った吉本せいさんの生涯は、生涯お笑い!ではなく子供たちの多くが早くに死去し、後継者にと思っていた息子は24才で孫を残し死去するなど悲しい過去を持っています。
吉本せいさんは吉本興業を大きくさせるなかで山口組とも関係があり、東京進出の際も山口組に手を貸してもらったといいます。吉本せいさんの家系図にある弟さんは、吉本せいさんの死去後に社長でしたが、死去後に山口組との関係が話題になったことも。
吉本せいさんは朝ドラ「わろてんか」のモデルで、「大阪を笑いの都に」という夢を一大ビジネスに成長させた笑いあり・涙ありの生涯が描かれます。
目次
●吉本せいの生涯(画像)
名前:吉本 せい(よしもと せい)
生年月日:(明治22年)1889年12月5日
出身:兵庫県明石市
職業:吉本興業創業者、芸能プロモーター
■米穀商の三女
吉本せいさんの父親は、大阪で米穀商を営む林豊次郎さん。
兄弟はなんと12人と大勢いて、10才年下の弟で三男・正之助さんと、8才年下の弟で四男・弘高さんは、吉本せいさんの片腕として吉本興業のビジネスを支えました。
■奉公先で商売気質を学ぶ
吉本せいさんは義務教育終了後、商業の中心地であり舟場の実業家の家に奉公に出されます。「奉公人の食が進むと損をする」という理由で食事中に悪臭を漂わせたり倹約に厳しい家で、吉本せいさんはこの時期に「無駄な金は使わない」という大阪の商売気質を学びました。
■20才で結婚 旦那は家業に無関心
(明治43年)1910年4月
20才で結婚。旦那となった結婚相手は18才から事実婚状態だった大阪上町本町橋の荒物問屋「箸吉」の息子・吉本吉兵衛さん。
荒物問屋「箸吉」は経営ピンチで、債権者からの取り立てにあっていました。姑からは家事の押し付け・嫌味など嫁いびりもありました。
でも一番の悩みは、旦那が家業をほったらかして芸にのめり込んで地方回りに出かける道楽者だったこと。それでも8人(2男6女)の子供に恵まれました。
■吉本興行の誕生
1911年7月、旦那・吉兵衛の父親が隠居して荒物問屋「箸吉」はどんどん傾いていきました。そこで旦那の道楽である芸を逆手にとって、商売の鞍替えをすることに。
(明治45年)1912年4月1日、吉本せいさんと旦那は、夫婦で、寄席「第二文藝館」を買収。寄席「第二文藝館」は天満天神裏にあった天満八軒の一つで、飲食店や土産物屋と並び8軒の寄席がありました。吉本せいさんと旦那はここで、芸人を集めて興行を始めます。
翌年(大正2年)1913年1月には「吉本興行部」を設立し、たくさんの寄席を買収して「花月」の名でフランチャイズを展開、落語演芸界を掌握していきます。そうして大阪から始まり京都・神戸・名古屋・横浜・東京と20以上の寄席を経営していきます。
■漫才の生みの親
吉本せいさんの本質は気遣い。例えば芸人が入院したら親身に看病したり、夏の寄席では冷たいドリンクを販売。芸人の心を掴むこと、観客の喜ぶことをすること、この2つが商売を大きくしていきました。
一番大きな功績は漫才の生み出したこと。
当時、人気絶大な落語家・桂春団治さんを引き抜いて島根の民謡「安来節」を取り入れ、「万歳」と言われた演芸を「漫才」に昇華。人気コンビ「エンタツ・アチャコ」を育てました。
それまで落語中心だったお笑いの世界に、まのまね・音曲・曲芸などを取り入れた、まったく新しいお笑い「漫才」を生み出したんです。
■旦那が死去・・・
(大正13年)1924年、旦那の吉兵衛さんが37才の若さで死去・・・死因は急性心筋梗塞か脳溢血といわれています。この頃の吉本せいさんは、10才年下の弟で三男・正之助さんと、8才年下の弟で四男・弘高さんに支えられすっかりビジネスを成功させていました。
■大成功
(昭和7年)1932年3月1日「吉本興業合名会社」を設立。3年後には47の直営劇場・寄席・映画館を所有し、所属芸人の人数には1300人にも登りました。
芸人達から「おせいさん」と呼ばれ慕われた吉本せいさんは、5大スター(横山エンタツ・花菱アチャコ・柳家金語楼・柳家三亀松・川田義雄)を世に輩出しました。
(昭和13)1938年には大阪のランドマーク・通天閣のオーナーにもなり、映画製作のほかプロ野球ジャイアンツの共同経営、慈善事業にも関わっていきました。
10才年下の弟・林正之助さん、8才年下の弟・林弘高さんは、東京での吉本興業を担っていきました。
しかし大成功の裏で困難もありました。(昭和10年)1935年に大阪府議会議長を務めた吉本興業顧問格の辻阪信次郎さんが贈収賄・汚職脱税事件で逮捕されてしまったからです。辻阪さんは獄中で亡くなったので吉本せいさんの罪は軽く済んだのですが、精神的ダメージは大きかったです。
■戦争
太平洋戦争が激化。吉本興業は国に協力して芸人を戦地に派遣したり、通天閣が焼けたので資材を国に提供したりしてます。
戦時中は、芸人慰問団「わらわし隊」が戦地を訪れ、命のろうそくを手にした兵隊達を笑顔にして癒しました。現在というところの、震災の被災地に芸人たちが慰問して被災者たちを笑顔にするのと通じるものがありますね。
その後も戦争のせいで芸人が引き抜かれていき、(昭和22年)1947年には後継者にするつもりだった息子・穎右さんが24才の若さで死去していまい、またも精神的に大きなショックを受けます。
(昭和23年)1948年1月7日
会社を合名会社から株式会社に変えて、吉本せいさんは会長に就任。
しかし終戦後は町も国も混乱して寄席は復活できず、今度は進駐軍専用のキャバレー「グランド京都」を開いたり、映画製作ビジネスで乗り越えました。
■死去
戦後まもない1950年3月14日
会長就任から2年後、戦後の混乱から軌道にのった吉本興業を見届けるようにして、死去。死因は肺結核でした。享年60才でした。
●吉本せい 子供は8人!息子や孫は?(家系図)
■吉本せいの家系図
●吉本せい
20才で結婚
●旦那:吉本吉兵衛
37才で死去
■せいの子供は8人(2男6女)
●5人は早くに死去した
●長女:吉本喜代子
●息子(次男):吉本穎右 病弱で24才で死去
●穎右の彼女:笠置シヅ子 ブギの女王
●穎右とシヅ子の息子(孫):亀井エイ子
■せいの弟(12人兄弟)
●10才年下の弟:林正之助
●8才年下の弟:林弘高
吉本せいさんは、結婚した年の11月には長女・吉本喜代子さんを出産。子供は2男6女に恵まれたですが、多くの子供が早世しました。
■後継者だった息子の穎右
吉本せいさんは、息子の穎右さんを後継者にするつもりでした。しかし1947年に24才で孫を残し死去しています。
穎右さんは彼女で歌手の笠置シヅ子さんとの結婚を望んでいましたが、後継者にするつもりだったので吉本せいさんは結婚に反対。
その後(昭和22年)1947年、笠置シヅ子さんの「東京ブギウギ」が大ヒットした年の5月、子供の頃から病弱だった穎右さんは24才の若さで死去し、結婚は叶いませんでした。
でも笠置シヅ子さんは穎右さんの死後数日後に女児を出産、吉本せいさんにとっての孫にあたります。そして作曲家の服部良一さんや歌手の榎本健一さんに励まされ歌手を続けています。
↓「東京ブギウギ」の動画です。こんなに明るい曲の影にそんな悲しい過去があったなんて・・・
■10才年下の弟:林正之助
吉本せいさんの死去後、10才年下の弟・林正之助さんが社長となり、途中1973年にいったん社長を辞めますが1986年に再度社長になり、1991年に死去するまでずっと社長でした。
吉本せいいさんが「戦前の吉本興業の立役者」なら、弟の林正之助さんは「戦後の近代的な吉本興業」を作った立役者です。
しかし1991年の林正之助さん死去後は、社長の座を巡りお家騒動が勃発。くすぶっていた創業家一族vs生え抜き社員の確執が表面化しました。山口組の関係も見え隠れするなど戦前の旧態然体質も話題に。
現在の社長は創業家一族ではなく、東京進出の功労者で生え抜き社員で、ダウンタウンの元プロデューサー大崎洋さん。
●吉本せいと山口組の関係
戦前の寄席や落語などお笑いの世界では、山口組などヤ〇ザとの関係は切っても切れない、当たり前の必要悪でした。吉本せいさんの吉本興業も同じで、山口組と関係がありました。
売れっ子芸人だけど吉本入りを嫌がる場合など、芸人引き抜きのとき、山口組の力を借りたこともあったそう。新しい興行を発足する際の地上げなどでも、山口組の協力があったそうです。
(昭和11年)1936年には、吉本せいさんは山口組と会って東京進出協力の約束してもらったとか。10月に東京の新橋演舞場で漫才公演を開催した時には、山口組が応援に駆け付けたという話も。
吉本せいさんと山口組は関係がありましたが、あくまでビジネス関係でした。
●吉本せい 朝ドラでドラマ化!
連続テレビ小説「わろてんか」、明日から放送が始まります。私自身のドラマへの思いはもちろん色々あるけど、それよりも皆さんにどんな風に届くのか、それが楽しみです☺️ これから半年間、よろしくお願いします! pic.twitter.com/vXgQZ7yNmG
— 葵わかな (@AoiWakana0630) 2017年10月1日
2017朝ドラ「わろてんか」は吉本せいさんをモデルにドラマ化されていますが、吉本せいさんをモデルにドラマはこれまでにいくつもありました。
■ドラマ
1960フジテレビドラマ「花のれん」主演:万代峰子
1966~1967NHKドラマ「横堀川」主演:南田洋子
1984~1985朝ドラ「心はいつもラムネ色」ヒロイン:眞野あずさ
2017~2018朝ドラ「わろてんか」ヒロイン:葵わかな
1988関西テレビ「にっぽん笑売人」主演:小川真由美
1995テレ東SPドラマ「花のれん」主演:宮本信子
2012東海テレビ「鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記」主演:かとうかず子
舞台では森光子さんや藤山直美さんなどが主演を演じ、映画化もされています。山崎豊子さんの直木賞受賞作「花のれん」もその一つです。
■映画
1959東宝映画「花のれん」主演:淡島千景
1966松竹映画「横堀川」主演:倍賞千恵子
●2017朝ドラ「わろてんか」
「わろてんか」のヒロイン・てんは、苦労して吉本興業を大成功させていった女性経営者という部分では同じです。でも境遇に違いがあります。てんは大阪ではなく京都の薬問屋の生まれなので、旦那は芸への情熱は深いかも。
吉本せいさんは冷たい飲み物を売るためにわざと塩味の濃いスルメやおかきを売ったり、抜け目ない大阪商売気質の女性。また、子供をたくさん出産した母の一面がありますが、子供たちは多くが早くに亡くなったり、後継者に考えていた息子が24才で死去したり暗い過去も。
でも「わろてんか」のヒロイン・てんは朝の顔なので、吉本せいさんとは違った笑いを届けてくれそうです。
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