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フィギュアスケート羽生結弦選手(25才)に対して、政府が国民栄誉賞を授与する方針を固めました。おめでたいニュースです。
怪我を乗り越えて五輪二連覇の国民栄誉賞に「政府の人気取り」という疑問の声もあるようですが、羽生結弦選手のこれまでを振り返ると、少女漫画の主人公の設定のような非常にドラマチックな人生を歩んでいることから、なぜ多くの人に愛され、感動を与えたのかわかります。
羽生結弦選手は本人の努力はもちろん、両親(画像)の教育方針のおかげでフィギュアスケート選手として一流になったと思いますが、両親は決して金持ちな職業ではありません。両親は国民栄誉賞をきっと喜んでることでしょう。
目次
●羽生結弦 国民栄誉賞授与
羽生結弦選手は、平昌オリンピックでフィギュアスケート男子シングルで66年ぶりとなる五輪連覇を成し遂げました。
さらに、右足首のけがを乗り越えて国民に大きな感動を与えた点を評価され、国民栄誉賞の授与が検討されることになりました。
1977年に国民栄誉賞が創設されて以来、フィギュアスケート選手の受賞は初めてで、個人の受賞としても最年少となります。
安倍首相が授与検討を指示し、その後、有識者の意見を聞いた上で正式決定するそうです。
国民栄誉賞とは「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった者」 を対象として賞なので、羽生結弦選手にぴったり。勇気づけられた人はたくさんいると思います。
●羽生結弦 プロフィール(画像)
史上最高得点の採点待ちでもプーさんを抱っこしていた羽生結弦くんの画像 pic.twitter.com/ydvB64LGXS
— 【羽生結弦】萌え♡ (@YuzuruHanyu_moe) 2018年3月1日
名前:羽生結弦
出身地:宮城県仙台市泉区
生年月日:1994年12月7日
年齢:現在23才
羽生結弦選手は、姉の影響で4才からスケートを始め、2010年に世界ジュニア選手権で優勝。。
スケートは実は喘息を克服する目的がありました。現在も喘息は完治していないそうです。
また、2011年3月11日の東日本大震災で自宅が全壊し、家族4人で仮設住宅で避難所暮らしに。当時、羽生結弦選手はアイスリンク仙台で練習中で、リンクの氷が割れ建物は半壊。その後、羽生結弦選手は復興支援目的のアイスショーに多く出演するなど故郷の再建に力を尽くしました。
2010-2011シーズンからシニアデビューすると、切れ味鋭い4回転ジャンプと躍動感あふれる滑りで10代から世界のトップ選手に。
2014ソチ五輪で金メダルに輝き、2018平昌五輪を迎える前の2017年10月のグランプリシリーズ後の公式練習で、4回転ルッツで転倒した際に「右足関節外側靱帯損傷」の怪我をしてしまいました。
怪我のため1月の四大陸選手権も欠場しますが、2018平昌五輪の男子シングルに出場して見事、金メダルを獲得したのでした。
・喘息もち
・故郷が被災、復興支援
・大会4ヶ月前にまさかの怪我
・五輪二連覇
などまるで漫画のようなドラマチックな羽生結弦選手です。金メダル二連覇というだけでなく、こういった背景があり感動を与えています。
●羽生結弦 両親(画像)の職業は金持ちではないが教育方針が素晴らしかった
フィギュアスケート選手は両親が金持ちというのが定説ですが、羽生結弦選手の両親も金持ちなのでしょうか
【羽生結弦の家族】
■父親:羽生秀利(ひでとし)
職業は中学校の教頭先生
算数の先生で野球部顧問
■母親:羽生由美(ゆみ)
専業主婦
■姉:4才年上
8~18才まで10年間スケート
アイスリンク仙台の職員
父親の職業はちょっと意外ですが中学校の教頭先生です。公立中学校の教頭の年収は40代の場合で700万円ほどといわれ、貧乏ではないですが金持ちでもありません。
実家は家賃5万円の県営住宅で、仙台駅から車で20分の場所。つつましく暮らし、節約のため衣装は母親の手作りでした。
2014ソチ五輪で金メダル獲得後は実家にマスコミが殺到したので、仙台市内のマンションに引っ越しています。
羽生結弦選手の家族は両親をはじめ全員、表に出てきません。その理由は、頑張っているのは本人だからというもの。
■姉の影響でスケート始めた
羽生結弦選手は幼い頃、野球部顧問の父親の影響でボール遊びが好きでしたが、2才から喘息もちというハンデを背負っていました。
4才のとき、姉の練習をみてスケートを始めてますが、母親は喘息をなんとか治してあげたいという想いがありスケート教室に連れていったのでした。スケートは屋内スポーツなのでホコリを吸い込む心配が少ないですから、ピッタリだったんです。
負けず嫌いな性格が幸いして「お姉ちゃんができるなら僕にだってできる」と、ジャンプやスピンに果敢に挑戦し、何度転んでも起き上がるしんの強さがありました。
■父親の言葉
父親は野球部の顧問を務めるほど野球好きだったので、本当は息子に野球をやらせたいという想いがありました。
羽生結弦選手が小学3~4年生の頃、喘息が改善に向いスケートが少しイヤになったタイミングで、父親は「野球のほうがおカネもかからないし、スケートが嫌なら辞めてもいいんだぞ」と言いました。
この言葉がいいきっかけになり、羽生結弦選手はスケートに対する自分の想いを再確認し、スケートを続ける決意をします。
■両親の教育方針
両親は、子供にヤラせるのではなく、子供が興味をもったことを可能な限り協力するという、子供の自主性を尊重する教育方針です。父親はスケートに口出しせず、頑張れ・練習しろともいわず、「おっ、頑張っているな」と声をかけて見守るスタンスをとっていました。
一方で、両親は羽生結弦選手が中学・高校に進むにつれスケートだけの人間にならないよう言い聞かせてきました。
そのため羽生結弦選手は、スケートの遠征先に教科書や参考書を持ち込み勉強との両立に励み、結果、中学から成績もよく、得意科目は理数系で、父親の血を受け継いでるようでした。
■母親とカナダで2人暮らし
2011年に四大陸選手権で銀メダル=史上最年少のメダリストになり、翌年・高校3年生の5月に、さらにうえを目指してキム・ヨナの指導者であるブライアン・オーサーに師事するため母親と2人でカナダに移住しました。
移住し始めは、言葉の壁や生活環境に馴染めず苦労も。食が細い羽生結弦選手は、カナダで多い肉料理に胃がもたれたりして、母親が消化のいい鍋料理を作り健康管理に努めました。
母親は、3.11東日本大震災でスケートリンクが壊れたときも、息子のため新たな練習場を求め、ケート連盟やコーチに片っ端から頭を下げて回った人です。羽生結弦選手はそんな母の想いを感じ取り、その頃から「僕は自分のためだけに滑ってるんじゃない」と口にし始めたそう。
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