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2020前期朝ドラ【エール】に登場する双浦環の実在モデルは、オペラ歌手の三浦環さんです。経歴プロフィール(画像)に迫るとともに、結婚した旦那や子供についても気になります。
双浦環は、世界的オペラ歌手。二階堂ふみさん演じる関内音は11才のとき教会で聴いたその歌声がきっかけで、プロ歌手を目指します。20才になった音は音楽学校で双浦環と再会。双浦環は音の旦那で作曲家の古山裕一(窪田正孝)にも大きな影響を与えるという、超重要キャラ。
演じる女優は歌手としても評価の高い柴咲コウさん。実在モデル三浦環さんの歌を朝ドラ【エール】のなかでも歌うようで楽しみですね。
実在モデル三浦環さんは、世界で最も権威のある音楽文献「グローヴ・オペラ辞典」で日本人で唯一名前が掲載されてるほどの音楽史上偉大なオペラ歌手!経歴と結婚・子供・晩年について紹介します。
目次
●蝶々夫人(マダム・バタフライ)とは?
『蝶々夫人(マダム・バタフライ)』とはオペラです。小説家J.L.ロングの小説「蝶々夫人」を作曲家プッチーニが戯曲化しました。
あらすじは、明治中期の長崎が舞台。没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍のピンカートン中尉の愛と悲劇を描いたラブストーリー。
2人は恋愛結婚して子供が生まれますが、ピンカートン中尉はそのうち戻ると言って独りでアメリカに帰国。
3年後やっとピンカートンが長崎に来ますが、アメリカで結婚したケイト夫人と一緒。彼を完全に信じていた蝶々さんはショックのあまり、子供に目隠しをして、自分は自殺してしまう・・・という悲劇。
●三浦環の経歴プロフィール(画像)
芸名:三浦 環(みうら たまき)
本名:柴田環
出身地:東京府京橋区(現在の丸の内)
生年月日:1884年2月22日
没年:1946年5月26日(享年62才)
職業:オペラ歌手
■実家の両親
三浦環さんの実家はお金持ち。現在の丸の内にあたる東京府京橋区で生まれました。
父親は柴田孟甫さんで、母親は永田登波さん。父親は現在の御前崎市の出身で、職業は公証人でした。
■子供時代
三浦環さんは3才から日本舞踊、6才から長唄と箏を習い、非凡な才能を発揮。
虎ノ門の東京女学館に入学後、音楽の杉浦チカ先生から音楽家になることを強く勧められ、上野の東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に進学を決めます。
■東京音楽学校時代
1900年(明治33年)に東京音楽学校に入学し、滝廉太郎さんからピアノを、幸田延さんから声楽を習いました。またこの頃から三浦環さんは「自転車美人」として話題になり、1903年の新聞小説『魔風恋風』に掲載の「自転車美人」の実在モデルになってます。
蝶々夫人で名を馳せたプリマドンナ三浦環。女学生時代(1900年頃)は「自転車美人」としても有名だった(写真中央)。環をモチーフにした恋愛小説、小杉天外の『魔風恋風』は当時ベストセラーとなり女学生と自転車のイメージが形成された。これが後に少女漫画「はいからさんが通る」に繋がっていく pic.twitter.com/gUmsX3XYXj
— 江津匡士 (@japagajp) April 17, 2017
はいからさんが通るといえば自転車だよな〜 pic.twitter.com/B34n1TSsbC
— まりね (@marine0w0) October 18, 2018
在学中、日本で最初のオペラ公演、グルックの「オルフェオ」で主役のエウリディーチェ役を射止めてます。
1904年(明治37年)20才で学校を卒業後は、奨学金を得て研究科に進み、授業補助として声楽を担当してその後は助教授に。40~50人もの弟子をもち、その中には童謡「赤とんぼ」の作曲家の山田耕作がいたそう。
■東京音楽学校卒業後
1911年(明治44年)27才のとき、新しくできた帝国劇場「歌劇部」で声楽を指導しながらステージにも立ち、オペラ「カバレリア・ルスティカーナ」を原語で上演したり、日本人初の洋楽レコード発売など、次々と新しい試みをしていきます。
当時のギャラは月給200円(現在の約76万円)、出演料は1回50円(約19万円)でかなり稼いでました。
■イギリスで世界デビュー
1914年(大正3年)30才、ドイツに行くと間もなく第1次世界大戦が勃発し、夫婦でイギリスのロンドンに移住すると、思いがけないチャンスが。
イギリスを代表する指揮者サー・ヘンリー・ウッドのテストに合格し、収容人数2万3千人を誇るロンドン最大「アルバートホール」に日本人初出演で世界デビューできたのです!幸先よすぎる30代。
ロンドン交響楽団と名オペラ歌手のアデリーナパティと共演!万雷の拍手のなかアンコールで「サクラサクラ」「ほたる」を歌唱するほど大成功。その模様は世界中に報道されました。
■「(蝶々夫人)マダム・バタフライ」プリマドンナ誕生
1915年(大正4年)5月、世界デビューの記事を見たロシア人からの依頼で、ロンドンの名門歌劇場「ロイヤル・オペラ・ハウス」の舞台『(蝶々夫人)マダム・バタフライ』に蝶々さん役で出演して大きな話題に!
見事に演じ切り、イギリス国王ジョージ5世も鑑賞した舞台は大成功!
■アメリカ・ヨーロッパ各地を巡る
その後アメリカに渡り、ボストンを皮切りに、ニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで『蝶々夫人』など公演。ニューヨークのメトロポリタン歌劇場は日本人初でした。
ヨーロッパでは、モンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリで『蝶々夫人』など公演。特にローマでは作曲家プッチーニが楽屋を訪れ、「あなたこそ最高の『マダム・バタフライ』プリマドンナだ」だと大絶賛!
こうして三浦環さんは20年間、欧米で活躍!アメリカでは日本の音楽大使としてホワイトハウスを訪れたり、ニューヨークのマディソン・スクエアの祝賀会でウイルソン大統領にエスコートされ振袖姿で登場したり!
●三浦環の結婚歴は?バツイチで再婚!子供はいる?
■結婚歴1 入学直前に結婚
東京音楽大学入学直前の1900年(明治33)9月16才のとき、父親の勧めで陸軍三等軍医正・藤井善一と結婚しますが、周囲には秘密にしてました。
■旦那と離婚
1907年(明治40年)23才、東京音楽学校助教授に就任と同時に旦那の藤井善一さんと離婚。理由は、旦那が転任先の仙台に連れて行こうとしたのを、すでに有名歌手だった三浦環さんが断ったから。ちなみに旦那との間に子供はいなかったようです。
離婚後は色々な男性から結婚プロポーズされるモテっぷりで、ピアノ師匠の瀧廉太郎さんからもプロポーズされたほど。もし実現したら先生と生徒の結婚でした。
この年の2月、あの渋沢栄一さんが会長となり「帝国劇場」を設立しています。
■結婚歴2 再婚してドイツへ
1913年(明治46年)9月30才のとき、三浦環さんは遠い親戚の医師・三浦政太郎さんと再婚します。
再婚相手の三浦政太郎さんは東京帝国大学医学部助手でしたが、結婚を機にシンガポールの「三井ゴム園病院」院長に就任し、三浦環さんの音楽活動も歓迎してた理解ある夫でした。
結婚翌年、旦那・三浦政太郎さんのドイツ留学とともに夫婦でベルリンへ行ったことで「本場のヨーロッパでオペラの勉強がしたい」という夢が実現!
翌年に第一次世界大戦が勃発したのにでイギリスに逃れますが、これが不幸中の幸いで「(蝶々夫人)マダム・バタフライ」プリマドンナへと繋がりました!
■子供はいる?
三浦環さんは最初の旦那とも、再婚した旦那との間にも子供はいないようです。
●三浦環の晩年は?
1935年(昭和10年)52才、シチリア島で『蝶々夫人』出演2000回を達成したのを境に、11月に日本に帰国。
帰国後は、歌舞伎座で日本初の「マダム・バタフライ」公演や、日本各地でリサイタルやオペラ公演など、戦争に飲まれた人々の心を歌で励ましたのでした。
1945年(昭和20年)62才のとき第二次世界大戦が終戦。リサイタルは続けていました。
しかし翌年になると体が衰弱し始め、膀胱ガンで3月に入院。
そんな体でもリサイタルやNHKの録音の仕事をこなしますが、5月22日に危篤状態に陥り、4日後の5月26日夕方に死去しました。享年62才でした。
●朝ドラ【エール】三浦環役は柴咲コウで歌も歌う!
朝ドラ【エール】では、三浦環役を演じるのは女優の柴咲コウさん。
三浦環さん1935年(昭和10年)52才のときのヒット曲「船頭可愛や」などを、朝ドラ【エール】のなかで実際に柴咲コウさんが歌うそうです。
「船頭可愛や」の作曲はエールの主人公の実在モデル古関裕而さん。戦時中や戦後によく歌われた流行歌で、子供たちも歌ったようです。
柴咲コウさんは歌手としても活動していて、RUI名義で歌った映画『黄泉がえり』の主題歌『月のしずく』などヒット曲も多いです。
2018年には、MuseK(ミュゼック)名義で英語詞の楽曲「Blessing」を発表し、世界を舞台にした歌手としても活動中!
美しい歌声です!
エールでの演技と歌が楽しみですね!
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