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いま大注目の菅義偉(すが よしひで)官房長官はどんな人なのか?生い立ち(経歴)を紹介します。
現在、世襲して二世議員の時代ですが、菅義偉さんは違い、いわゆる叩き上げ。
実家は父親がイチゴ農家、母親は元教師。けっこう金持ちな暮らしで、菅義偉さんは若い頃から勉強もスポーツもできたのでモテたでしょうね!
高校卒業後の経歴は、農家も教師も嫌で家出同然で上京!東京に夢見てダンボール工場に就職すると現実を目の当たりして、やっぱり大学行くことにしますが入学金稼ぐまで2年もかかった苦労人。
大学生の若い頃はなんと空手部!画像ありますがカッコいいです。
その後、政治に目覚めて秘書を経て、いきなり国会議員ではなく横浜市議になりますがここで頭角を現し、『影の市長』の異名で呼ばれます。カッコいい。この頃に人事とか、人の心を掴むこと学んだようです。
目次
●菅義偉の経歴・生い立ち 実家の父親はイチゴ農家で母親は元教師
名前:菅 義偉(すが よしひで)
出身地:秋田県雄勝郡秋ノ宮村
生年月日:1948年12月6日
年齢:71歳
職業:衆議院議員、内閣官房長官
所属:自民党
生まれた実家は、秋田県雄勝郡秋ノ宮村(現在の湯沢市秋ノ宮)中央部旧国道沿い。秋田の山々をいくつも超えた先にある、大自然に囲まれた超田舎にある農家でした。
家族構成は6人家族。
● 父親:菅和三郎
● 母親:タツ
● 長男:菅義偉
● 姉2人
● 弟1人
■父親はイチゴ農家
戦前、父親の職業は満州鉄道の職員で待遇に恵まれ、官舎があり、お手伝いさんもいるという、金持ちな家庭を築いてました。菅義偉さんの姉2人は満州で生まれています。
しかし1945年8月、日本が敗戦すると一変し、命からがら満州から引き揚げて帰国。その3年後に菅義偉さんは生まれてます。
「これからは米だけでは食べていけない」という理由で、父親はイチゴ栽培を始め、『秋の宮いちご』ブランド化して成功してます!ビジネスの才能がある鉄道職員だったんですね!
『秋の宮いちご』は全国的にも有名になり、イチゴの生産組合を設立して独自の生産・出荷・販売ルートを構築!父親は地域に信頼され、町会議員も務め、2010年に93歳で死去しています。
■母親は元教師
菅義偉さんの家族や親族は教師が多いです。
母親タツさんは元教師で楽しくて優しい人。叔父と叔母も元教師で、姉2人も高校教師になってます。
ですが菅義偉さんは『イチゴ農家』と『教師』どっちも嫌でした。だからといってなりたい職業もなく。
●菅義偉の経歴・生い立ち 小学校・中学校・高校の学歴
秋田の少年時代、実家は金持ちだったので、親に買ってもらった月刊漫画『冒険王』を、近所の子供たちが読みたくて順番待ちしたとか。
■小学校
1964年4月、地元の雄勝町立秋ノ宮小学校に入学。
足が速くてスポーツ万能で、陸上・ミニバスケ・ソフトボール・相撲の地区大会や郡大会で活躍しました。渓流釣りも好きで、近所で有名な釣り名人でした。
■中学校
地元の雄勝町立秋ノ宮中学校に進学。
野球が好きで軟式野球部に所属し、ポジションは俊足巧打の1番サード。出塁率4割近い機敏なトップバッターでした。バットを投げ出すような独特な打撃フォームのため、先生から直すよう言われましたが「こっちのほうが振りやすいから」と直さなかったし、結果を出してるから先生もそれ以上は言いませんでした。
■高校
中学卒業後、同級生120人は、半分が東京に集団就職し、残りの半分30人は農家を継いだので、高校に進学したのは30人だけ!
そうして菅義偉さんは秋田県立湯沢高校に進学。地元から遠く、バス電車50分・徒歩30分で片道1時間半もかけて通学。そのため部活は諦めて帰宅部になり、家業の農作業をしました。
成績は文武両道で、ガリ勉じゃないけど勉強のコツをつかむのが上手で、3年生のときは進学組に所属しました。
●菅義偉の生い立ち 大学の学歴は?空手の画像あり
1967年、高校卒業後は集団就職で上京しました。
教師を目指して北海道教育大学を受けたが落ちたため上京したという報道は間違いで、教師だけはなりたくない、農家も継ぎたくないから、東京に行けばいいことあるんじゃないかと淡い希望を抱き、家出同然で上京しました。
集団就職した板橋区のダンボール工場で働くとすぐに現実の厳しさに気付き、やっぱり大学に行こうと、数カ月で辞めます。一番思い出したくない青春の1ページとなりました。
まず入学金を貯めるためバイトに明け暮れます。朝は築地市場で台車運、夜は新宿の飲食店で皿洗い、合間や夜に受験勉強という生活を2年間。
1969年4月、法政大学法学部政治学科に入学。法学部を選んだのは政治家志望ではなく学費が一番安かったからだけ。
入学後も学費は全てバイトで稼ぎました。ガードマン、新聞社のパシリ、食堂のカレー盛りつけ係、毎日アルバイト。
そんなバイトに追われながらも、唯一打ち込んだのが空手部での空手!忙しいのに三段の段位を取得します。
菅義偉官房長官
学生時代は硬派武闘派だった!?
法政大学剛柔流空手道部出身!!#菅義偉 #菅官房長官 https://t.co/q6VawOqEK7 pic.twitter.com/EOJ4Kl4bES— 神州清潔の民 (@karayan13z) September 2, 2020
「自分を厳しい状況におきたかった。
空手からは礼節や先輩、後輩の序列を学びました。
そして我慢することを覚えた。
練習はすごく厳しかったが、どんなにきついことも時間が来れば終わるということを知りました。
アルバイトばかりの大学生活でしたが、人生修業はやった気がします」(菅氏)
引用:FLASH
空手をやったことで、礼儀を覚え、自分に厳しい人間になれたみたいです。
( ̄▽ ̄) 菅さん「耐える力や平常心は空手で鍛えた」素晴らしい🥋
空手部だったんですね。
んで苦労人やったんや🤔
ハイ、次の総理に決定‼️笑#菅官房長官 #菅義偉 #空手部 #築地 pic.twitter.com/x4e9m0K7Wl
— SHINGO (@shibucho45) September 1, 2020
●菅義偉官房長官の経歴 若い頃24歳で会社に就職
1973年4月24歳、菅義偉さんは法政大学卒業後、電気通信設備の点検がメイン事業の『建電設備株式会社(現、株式会社ケーネス)』に就職してサラリーマンになります。
しかし「世の中を動かしているのは政治だ」と気が付いて、人生をかけてみることに。
●菅義偉官房長官の経歴 若い頃20代後半からの秘書時代が原点!
ところが政治家になるにもツテがないので、法政大学の学生課に頼んでOBの国会議員事務所を紹介してもらい、
1975年26歳で、横浜の自民党の小此木彦三郎衆議院議員の『小此木事務所』の秘書になりました。
菅義偉さんが
最初に秘書として仕えたのが小此木彦三郎さん、
尊敬していたのが梶山静六さん、
と聞いて、何となく彼のルーツが分かったような気がする。
この二人は、ポピュリズムや劇場型政治とは線を引いた、愚直で実直な保守、これがもしかしたら目指すところなんかもしれん。
知らんけどな。 pic.twitter.com/0YBjeFyyte— キルゴアさん (@KilkilGoregore) August 31, 2020
菅義偉さんはまだ独身でアパート暮らし。最初の数年間は毎朝、小此木さん一家と朝食を食べ、箸の上げ下ろしから教えてもらう、書生のような暮らしでした。
秘書時代の画像がこちらです。現在よりもふっくらしる!
名刺を片付けてたら面白い名刺を見つけた。右翼現役だった30年ほど前にまだ小此木彦三郎の秘書だった菅義偉に会ってたんだなぁ(笑) pic.twitter.com/ptQruAjbUv
— 佐久間五郎 (@cordial8317) November 17, 2016
秘書を11年間勤めて大きく成長し、菅義偉さんの原点となりました!働きぶりが素晴らしくいろいろな政治家事務所からスカウトがあったそう。
秘書時代に培った政財官の人脈はその後も活きていきます。
1983年34歳、小此木議員が『第二次中曽根内閣』で通商産業大臣として初入閣し、菅義偉さんは大臣秘書官に抜擢されました!
●菅義偉官房長官の経歴 若い頃30代後半から市会議員を2期!
1987年4月37歳で横浜市議選に初出馬します!いきなり国会議員になったわけじゃないです。
■奇跡の初当選
最初、引退する市会議員から後継者になって欲しいというオファーが来ますが、なんとここでの出馬は断ります。
出馬したのは、誰からも要望のない横浜市西区。売上税問題で自民党に逆風が吹いていただけでなく、ライバルに自民党現職の77歳有力議員がいたので周囲は猛反対。
長老に逆らったため公認をもらえず無所属、後援会長もおらず、「地盤」「看板」「カバン」なしからのスタート。
菅義偉さんは朝6時~夜9時まで1人で1日300軒を歩きまわり、選挙前まで3万軒をまわった頃には6足の靴がボロボロに。
でもこの頃には自民党の公認をもらえ、個人の献金が集まってお金の問題もクリア。誰もが落選を予想したのに奇跡の初当選を果たしました。
「お金が無くとも、地盤が無くとも、強靱な意志と弛まぬ努力があれば、何事も成し得る」という哲学で、「意志あれば道あり」が座右の銘となりました。
■若きエース議員
自民党の若きエースとして活躍し、リーダーシップを発揮して最初の成果は、横浜経済の発展と横浜市民の環境と交通渋滞緩和にめちゃくちゃ役に立つ『横浜ベイブリッジの下に国道357号線を通す』着工決定でした。
横浜市議会の若きエースとして2期、務め、人事権を掌握するポストに権力が集中することを知ります。
育ててくれた恩人であり、横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木議員の死後は、当選回数わずか2回にも関わらず、事実上の代役として市長のよき相談相手となり、「影の市長」の異名で呼ばれました。
●菅義偉の経歴 アラフィフで国会議員に!
1996年47歳、衆議院議員選挙に初当選して国会議員に!
横浜市議時代、財源と権限を国に握られ、国中心の中央集権体制に強く疑問をもっていた菅義偉さんは、地方分権国家の実現を目指して、市会議員を辞職し、浪人生活を経て、神奈川2区から自由民主党公認で出馬して初当選!
その後、自民党総裁選挙では軍人の異名をもつ梶山静六さんを支持し、宏池会に入会。
2000年に加藤紘一さん起こした倒閣運動『加藤の乱』のあとは、その反対派の堀内派に入るなど派閥を転々とします。
2002年、国土交通大臣政務官に就任し、ETCの夜間割引、アクアラインの大幅値下げ、港におけるワンストップサービス化などの実現に取り組みました。
2003年、経済産業大臣政務官に就任し、対北朝鮮経済制裁シュミレーションチームの座長として活躍。振り込め詐欺撲滅ワーキングチームの座長として、プリペイド携帯の販売禁止法案の成立にも尽力しました。
誰についていくべきか模索するなか安倍晋三さんと出会い意気投合し、愛国心の強いグループに入りますが菅義偉さんはそういう思想ではなく現実的な実務タイプ。
■既得権益の解体、規制の破壊
4期目、2005年に総務副大臣を経て、2006年に安倍内閣で総務大臣に就任。NHKの会長人事に介入した『NHK改革』など既得権益の解体を行いました。ふるさと納税、放送法の改正、地方分権改革法案、郵政民営化など1年間で19もの法律を作りました。
2014年に内閣人事局を設立し、官僚のポストは内閣が決める仕組みにしたことで官僚をコントロールしやすくしました。ただ官僚がポストをもらうため内閣に気に入られるため「忖度」を生んでいます。
内閣府特命担当大臣(地方分権改革)、郵政民営化担当大臣、自民党幹事長代行などを歴任。2012年12月から内閣官房長官を務めています。
■値下げで国民の人気を得る
菅義偉さんは人の心をつかむの上手で、国民が喜ぶ値下げが得意。ETC夜間割引、アクアラインの大幅値下げ、携帯料金の値下げ、NHK受信料の値下げなど行ってます。
規制の破壊と、国民の人気を得るのが上手いです。
●まとめ
菅義偉さんの経歴を若い頃から紹介しました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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