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演歌歌手の島倉千代子さんは、借金問題で苦しんでいたとき細木数子さんにギャラを持ち逃げされたといわれています。細木数子さんといえば占星術ですが、持ち逃げとは?真相に迫ります。
借金問題は、島倉千代子さんが家族の反対を押し切って結婚した相手、旦那の藤本勝巳さんが原因で始まりました。その後は不倫相手が原因でまた借金問題を抱え、細木数子さんと出会うとさらに借金問題は膨らみました。いつ何があったのでしょう?
島倉千代子さんはといえば代表曲「人生いろいろ」を地で行く人生で、借金問題・細木数子・持ち逃げ のキーワードは欠かせません。ひたすら耐え忍ぶ人生は、子供の名前にも表れていました。
2013年11月に肝臓がんが死因で死去。享年75才でした。
目次
■島倉千代子 借金問題の始まりは結婚相手
■島倉千代子プロフィール(画像)
名前:島倉千代子(しまくら ちよこ)
出身地:東京都・北品川
生年月日:1938年3月30日
年齢:享年75才(2013年11月8日没)
高校:日本音楽高校
職業:演歌歌手
島倉千代子さんは1954年(昭和29年)16才の時、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝して、翌年に「この世の花」で演歌歌手デビューすると200万枚の大ヒット!
歌手3年目の1957年(昭和32年)19才で紅白出場を果たすと、1986年(昭和61年)48才まで連続30回出場、合計35回出場。300枚以上のシングル曲を発売し、レコーディングした曲は1600以上。1999年には紫綬褒章を受章しました。
「人生いろいろ」「東京だョおっ母さん」などのヒット曲で知られる、昭和を代表する歌手の1人です。
そんな華やかな経歴の一方で
島倉千代子さんは8人兄弟の6番目で、16才で芸能界入りして世間知らず。お人よしで、好きになる男性に染まってしまう性格から、借金問題を抱えることに・・・
■借金問題1. 旦那で
島倉千代子さんの元彼氏は、国鉄の町田行彦選手や西鉄の稲尾和久投手といったプロ野球選手でした。
次の彼氏は、阪神の4番バッターで人気者の藤本勝巳選手。
1963年(昭和38年)25才の時、島倉千代子さんは父親の喪が明けていない年内に結婚するとワガママを言って家族ともめた末に、12月に結婚。
旦那の実家には持参金1000万円を渡すと、すぐ藤本勝巳選手の借金返済に使われ、姑からイジメられ、結婚1週間でもう旦那への愛情は冷めました。
1967年(昭和42年)29才の時、最初の借金4000万円。旦那が引退して、水商売に手を出してクラブをオープン。開業資金は、を島倉千代子さんの大ファンの銀行頭取が「このお金で旦那と離婚しなさい」と貸してくれたお金です。
しかし旦那は離婚せずストーカー化。しかも水商売に失敗して、さらに4000万円を頭取から借金して渡し、結婚6年目でやっと離婚できたのでした。これで借金は合計8000万円。
■借金問題2. 眼科医で
離婚協議中、島倉千代子さんは10才年上の眼科医の守屋義人さんと不倫関係に。
守屋眼科医は、島倉千代子さんが結婚前の1962年(昭和37年)24才の時、ファンが投げた紙テープの芯が目に当たり失明危機の大怪我を負ったとき治療した医者でした。
その後、旦那と離婚が成立。「島倉千代子」という金のなる木をつかんだ守屋眼科医は、不動産業や芸能プロダクションなど副業に手を出しますが、失敗して借金問題に。
島倉千代子さんは守屋眼科医を信用して借金の保証人になってたので、ライブ会場のコマ劇場に借金取りのヤ〇ザが毎日嫌がらせにくるようになりました。
一方、守屋眼科医は手形を決済できず、そのまま逃げてしまいました。この時点で島倉千代子さんの借金は4億3000万円だったといわれています。
■島倉千代子の借金問題3. 稼ぎを細木数子が持ち逃げ
彼氏に裏切られ借金問題も抱えボロボロになった島倉千代子さんは、政治ブローカーの安部正明さんの自宅に居候します。
安部正明さんは、同じくヤ〇ザ小金井一家の堀尾昌志総長に、コマ劇場での嫌がらせを止めさせるよう指示。堀尾昌志総長は、内縁の妻・細木数子さんに借金問題を担当させることに。
■細木数子との関係の始まり
1977年(昭和52年)39才の時、島倉千代子さんはまだ占い師になる前の細木数子さんと出会い、4億3000万円あった借金を1億5000万に減らしてもらい、肩代わりしてもらいました。
借金の取り立てのヤ〇ザには、細木数子さんの内縁の夫でやはりヤ〇ザの堀尾昌志総長が盾となって防ぎました。
島倉千代子さんにとって細木数子さんはまさに救世主です。記者会見でも「お世話になっているママ」だと同席してもらい債務状況などを説明してもらいました。
細木数子と島倉千代子の関係を知れば知るほど怖くなった pic.twitter.com/zOp7Nrx7nf
— ⓂⒶⓎ②④ (@MAY24touch) 2017年7月13日
■「ミュージックオフィス」設立
しかし細木数子さんはタダで借金を肩代わりして訳でありません。
代わりに島倉千代子さんの興行権を手に入れ、1977年3月に芸能事務所「ミュージックオフィス」を立ち上げ、借金返済のためだと言って芸能活動をスタート。細木数子さん自ら社長になり莫大な興行収入を手に入れます。
島倉千代子さんはキャバレーやクラブで歌うことが増え、初めて電車移動も行う一方、作曲家も作詞家も細木数子さんとヤ〇ザの内縁の夫にビビッて新曲を作りませんでした。
■細木数子がギャラを持ち逃げ?
当時、島倉千代子さんクラスの演歌歌手のギャラなら、1億5000万円なら1年で借金返済できるはずでした。
しかしいくら必死で働いても借金は減らず、むしろ逆に増えていき、いくら世間知らずの島倉千代子さんでもおかしいと気付きます。4億円を1億5000万に減らしたという話が、16億円を6億円に減らしてやったという話にいつま間にかスリ替わっていた・・・
そうやって3年間、ほとんど無給で馬車馬のごとくこき使われ、枕営業も頻繁にさせられたといいます。
細木数子さんは借金の金額を、2億4000万円、4億3000万円、16億円、13億円、12億円と、その場その場で言い変えていいて、 島倉千代子さんクは正しい金額がいくらかも把握できないまま。
借金問題が1年で解決してるはずの島倉千代子さんを騙して、ギャラを細木数子さんが持ち逃げしたようなものです。
■コロムビアが細木数子から救った
1981年(昭和56年)43才の時、見かねた知人が助け舟を出し、コロムビアミュージックが仲裁に入って細木数子さんによるアリ地獄から救ってくれました。
残っていた1億円の借金をコロムビアミュージックが肩代わりして、事務所を移籍することで細木数子さんとの借金問題にようやく決着。
ここでも細木数子さんは金をむしり取ります。興行権をコロムビアミュージックに渡す代わりに、手切れ金として2億円をちゃっかり手に入れてます。
■その後、細木数子との関係は?
島倉千代子さんはその後、細木数子さんはもちろん、細木数子さんとの関係を知る人を避けるようになりました。
窮地から救ってくれた「大恩人」だと思っていた人が、まさか自分を食い物にするモンスターだとは、お人よしな性格な島倉千代子さんは思いもよらなかったでしょうから。
それでも島倉千代子さんは、細木数子さんを批判したり苦情や言及もしませんでしたし、取材を受けても「細木さんは、一度はお世話になった方。死んでも真相は話しません」と固く口を閉ざしたまま、死去されました。
残った借金は『人生いろいろ』のヒットもあり1990年には完済したそうです。
■細木数子 その後、現在は?
名前:細木数子(ほそぎ かずこ)
生年月日:1938年4月4日
年齢:現在80才
細木数子さんは島倉千代子さんを解放した1981年(昭和56年)、占い師として書いた最初の本『六星占術による運命の読み方』が70万部超えの大ヒットして一躍時の人に。当時テレビ出演のギャラは1時間400万だったとか。
1983年(昭和58年)45才の時、陽明学者で歴代総理の指南役であった安岡正篤さん(当時85才)と結婚。これは財産目当て。
1年後に安岡正篤さんが死去すると、遺産を巡り安岡家と訴訟で骨肉の争い。ヤ〇ザとの関係や、墓石屋と組んで霊感商法を行ってると被害者から告訴もされます。このスキャンダルを週刊誌に暴露されたのが原因でテレビから消えます。
2008年「休養したい。身辺整理のため」との理由でレギュラー番組をすべて降板。
その後、現在はテレビ出演はありませんが、六星占術の本は売れ続け、会員制サイトも続け、占い師として勉強会を開いたり、定期発行紙を発行したりして収入を得て大金持ち。京都の豪邸で悠々自適な余生を過ごしています。
ただ『六星占術による霊合星人の運命(平成26年版)』を出版したとき、表紙の写真画像が激ヤセしていたので、島倉千代子さんの借金問題などこれまでの悪行のツケが回ってきたといわれることもありました。
■島倉千代子の家族 子供はいた?
島倉千代子さんの家族についてですが、結婚した旦那・阪神の元4番・藤本勝巳さんとの間に子供はいませんでした。
子供を持つことへ憧れはあったし、子供を妊娠はしたのですが、幼少期に輸血でC型肝炎になったことや、仕事や経済面の理由から3度の中絶を行っています。
当時は今と違って軽い感覚で中絶する時代で、スターは映画会社・レコード会社・芸能プロダクションから子供を産むことを許されない背景がありました。子供をとるか芸をとるかという時代でした。
島倉千代子さんは子供の名前は「忍」と決めていて、墓石には「音の門」と刻まれた横に「忍」と刻まれています。
「忍」という子供の名前は、心が壊れるくらいの壮絶な苦労に耐えてきた島倉千代子さんの人生をそのまま表してるように思えます。
■島倉千代子 いつ死去?死因は肝臓がん
島倉千代子さんは最後の最後まで歌手として生きた人です。
1993年(平成5年)55才の時、島倉千代子さんは初期ステージの乳癌が判明。放射線治療の影響で声が出なくなってしまいますが、訓練で歌声を取り戻しました。
2010年(平成22年)72才の時、肝臓がんを発症し、入退院を繰り返します。3度も受けた手術は、歌手として喉に影響がない手法を選びました。
2013年6月に入院し、10月中旬に退院後、新曲「からたちの小径(こみち)」を自宅で録音するほど歌手として生きました。
2013年11月6日早朝、体調を崩して入院すると8日午前に体調が急変して、肝臓がんが死因で死去。享年75才でした。女性マネジャーと知人が見守る中、、苦しまず穏やかな表情で眠るように息を引き取りました。
4億円の現金と有価証券などを遺して死去したそうです。
「死後に迷惑を掛けたくない」という想いから、よき相談相手の住職がいる寺に遺体は安置されました。
命日には少し早いですが、品川区東海寺の島倉千代子さんのお墓参り。 pic.twitter.com/XFafBFAwCX
— OpenYourHeart (@OpenYou85954832) 2017年11月4日
島倉千代子さんの代表曲といえば「人生いろいろ」
その通り、波乱万丈な人生で、悲しい出来事が多かったですが、「歌を歌っていることが、生きてること」歌があったから生きていけました。
島倉千代子さん本人も「私の人生そのものが、“人生いろいろ”。自分の歌のよう」と語っていたそうです。
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